ピアノのインストだとharuka nakamuraさんの曲をよく聴いている。なにがきっかけだったかは忘れてしまったものの、harukaさんの曲は、いつのまにか日々の生活のなかで身近な音楽になっていた。それから、韓国の作曲家のPidalsoさんという人の曲も、ちょっと前にYouTubeで知ってからよく聴くようになった。目が覚めてしまった夜更けに馴染むような、繊細なピアノの音色。最初は確かジブリ曲のピアノカバーを聴いたんだったと思う(日本の映画が好きなのか、YouTubeでは日本のアニメのサントラのカバーも多く、馴染み深い)。単純にジブリ曲をカバーしたのと違って、うまく言えないけれど、それはピダルソさんの世界でもあった。彼女の世界を通して奏でられていた。その世界に惹きつけられるものがあり、それでもっと知りたいなと思って、オリジナル曲も聴くようになった。ピダルソさんについて日本語だとあまり情報がないから、よくは知らないけれど、まだそんなに曲を出しているわけでもなさそうで、発売されているアルバムはそのジブリのものを含めて二枚だけみたいだ。
しゃぼん玉
夕陽に照らされた一本道を、一つのしゃぼん玉が横切っていくようにふわふわと飛んでいた。
カブトムシ
晴れてはいたものの風の強かった朝の公園で、木漏れ日がきれいだなぁと思っていたら、ひっくり返ってうまく動けなくなっている一匹のカブトムシがいた。ええ、こんなとこに、と驚きつつ、もとにもどしてあげたら、トコトコトコと近くの木に向かって歩いていった。ここはどこだろう、というのが全くなく、一直線。じっと眺めていたけれど、なんの迷いもなく、早くおうちに帰るんだ、という強い意志を感じさせるくらい真っ直ぐ帰っていった。カブトムシにも帰巣本能があるのだろうか。
時計の針
朝、誰もいない広場で時計を見上げたら、ちょうど長針が一つ進んだ。子供の頃、時計の長針が進むのを見たときに、なんだかこの世界の秘密を覗き見たような不思議な感覚になったことを思い出した。ああいう感覚のことをなんて言うんだろう。ちょっと違った世界に入ってしまったような、現実からかすかにずれたような、それでいて決して居心地が悪いわけでもないような、そういった感覚には、今でも惹かれる。映画監督の岩井俊二さんが、前になにかのインタビューで、映画作りにおいて子供の頃の迷子になったときの感覚を大切にしている、といったようなことを語っていた。もしかしたら、そのこととも少し似ているのかもしれない。はるか遠い世界というよりも、地続きのなかで浮遊するような、平然と歩きながら浮かんでいくような、それは落ちていく不安もありながら、飛翔もしている。
続き
人は、純白のままでは生きられない。生きていくというのは汚れるということ。だから、どうしたって外から見たら、ここが汚れてるじゃないか、という人は出てくる。ひどい汚れのなかでも生きていかなければいけないし、泥沼から這いあがろうとしたら、いっそう汚れも背負っていかなければいけない。それでも、ささやかでも美を目指すことはできる。自分のなかの、今ではとても小さくなってしまっているかもしれない、純なものを探すこともできる。世界に対しても、他者に対しても、自分自身に対しても、目を凝らし、指先を伸ばすことはできる。その意思への尊さが、希望ではないかと思う。